2006-02-05

last

  • 著作権を放棄します。転載・流用も自由……とは言えそんなに使える文章でもないですが。
  • 近々トラックバック受付を停止します。幾つか記事の手直しだけは行いますが、更新はしません。

 まあ、諸事情と言う奴です。私の内面問題もあるのですが、連れが入院して不便な生活なのに、今の時期、私だけ好きな事を書くのもおかしな話だからです。けれども、ただ「辞めた」では知っている方みんな落胆しそうだし、私もそこまでしなくても良いと思うので、当面は創作のみに縮小します。表には出しません。再び表に出るのは、纏まったコンテンツができてからと決めています。

 その他諸々はもう書きません。

04-03 事後噺(私用のログです)

 あれから忙しく、二ヶ月が経過した。その間私は大学の手続きだとかバイトの代打とかしてましたが。その他、連れの退院の際におめでとうといったり、2月の17日にパソコンが壊れてデーターのバックアップとってないとか騒いだり。

 その他、幾つか記そうと思う。私はデーターのログの保管がいい加減だからこういう場所でないと残さないので、ほぼ私用です。RSS登録者(いないと思いますが)だとかは期待しない方が良いと思う。

  • 19861001.jpを取った→調べればわかるから実名表記
  • ブログはもう書けそうにないこと→忙しい忙しい忙しい
  • 不定期ではてなブックマークが動く→他人のパソコン(アカウント)を使っているので公開サービスを使わざるを得ないと

 他は何でしょうかな。読み直して「思う」が多いなとか思ったり。永劫記録を目指すのに私が如何に刹那を重んじるのか分かる内容。最初から「思うこと」を残すことしか達成できてないじゃないのとか(その目的とやらは時々刻々と変化していなかったっけな)。

 けれども大学の提出用のレポートを書いて「気楽に書けないなら文章なんか書きたくないや」となってしまった。ダメですね。

 とりあえず、今年中に37単位全て取得して通信制から一部の全日に移行しようかと。そういうわけで永劫書けなくなっちまったとさ……めでたくない。

04-03 p.s

 寝る時間くらいください←なら遊ぶなと

posted by yosiyama at 18:41 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

2006-02-03

仲間内コミュニティ? それとも

ノイズなツブヤキ

 今回、このブログからリファラが残っていたのですがリンクを発見できず、リンクが消されたのかなと思いました。ところがリンク一覧を見ると吃驚。なるほど、ニックネームをつけられていたのか(kazukoのようです。私のあだ名は)。

 それだけでなく、ぱっと見コメント欄との対話形式で更新しているように見えるブログも実は思考記事。これは私の書けないタイプです。私はご覧の通りの書き方が定着しているため、こういう書き方はまずできません。見た目だけの文体を変えるのは容易なんですが、本質では敵わないと思いました。いや、私が単純に未熟過ぎたのかもしれませんが。

 他、気になった記事をじっくり読ませていただきました。流石に逐一あれこれ書くのも変なので野暮なコメントは避けます。ただ、こう言う日記は面白いです。

posted by yosiyama at 21:52 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

楽しくないけど

はてなブックマーク記事を勝手に個人の案内記事にしてみた

 引用部が古かったので勝手に案内記事にしました。

 まあ、勝手に書き変えるだろうと思ったら、古い引用記事のままだったので。

余談

 編集は誰でもできてしまうのですが、サイトやブックマークのトップにクリップされた場合、管理者が勝手にinfo記事化させても良いと思う。言い換えればはてなブックマークを使ってinfo記事を生成させるのもありということ。

 はてなブックマークにクリップされた記事が存在しなければ自分でアカウントを取得して自分の記事にクリップしても良いかも知れない。もっとも、そんな事を考えるのは私だけで、info記事を他所に設けて自分が気楽に使う発想自体誰もしないのかもしれない。info記事なんて管理者ならすぐ作れるものですからね。

 とは言え、インデックスページ(いわゆるトップ)に引用部を表示させただけの状態も、何もないのも寂しいのでクリップされている事を知っているなら書き変えてしまえば良いのにと、私は思う。

posted by yosiyama at 18:59 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

web2.0は二極化を招くのではないか?

web2.0とは

 web2.0が話題になっている。私はweb2.0の事は良く分からないのですが、多分私には縁遠い話。

 私はweb1.0や1.5を好んでいます。時の流れで2.0に飲み込まれる可能性は十分にあって、web2.0に位置するはてなブックマークやグーグルを活用しています。ただ、私個人は使わなくても良いと見なしています。個人で構築し、運営するには必然的に1.0から1.5を薦めます。なぜならば、管理者が情報を管理する方が私にとっては魅力的なのです。

 つまり、私はユーザーや閲覧者に口を出されるよりも、むしろ私がユーザーや閲覧者に情報を提供していれば良いと見ているのです。それはどう言う事なのか? 私はユーザーや閲覧者のために情報を垂れ流したのではなく、実は私個人のために情報を書きとめているにすぎないのです。

 逆の場合も同じです。私は一ユーザーであり一閲覧者の立場にいます。情報を提供する側から一方的に情報を享受する立場にいたのだから変える必要はないと見ているのです。レビューのように、著者に向かって感想が書けたとしても、私は著者に文句や感想を言いたいのではなく、むしろ自分のために書き遺しているに等しい。はっきり言って現状の私はweb2.0に不適格な人間なのです。

 また、ユーザーや閲覧者から物を言われたくない人間もweb2.0に好ましい未来があるとは思えない。web2.0とは読み手が書き手に口を出す世界と言っても良い。ある時見た無断リンク禁止を掲げた人々のように見知らぬ人から口を出されることを著しく嫌悪人々は一体全体どこに向かうと言うのか?

web2.0は二極化を招くのではないか?

 私のようにブログを「情報発信のツール」ではなく「書き残す道具」と見ている人間にとって、web2.0はどこか縁遠い話です。今までネットをどのように使ってきたのかが、多分web2.0を好ましく感じるか、そうではないかに分かれるのだと思う。私は、旧来のネットの使い方で実は十分だと思っています。

 これは合う合わないでしかない。web2.0が盛んに取り上げられているからと言って、好ましい未来があるか否かは別問題と言うことです。結果、1.0に安住する人間もいれば、2.0に定住する人間もいるのではないでしょうか。ふと、web2.0特集(PC)を見て「こんな世界興味ないな」と私は思ってしまった。そうしてこの記事のような事をふと抱いたのです。

専門用語ばっかりか

 web1.0は管理者が閲覧者に一方的に情報を送る世界。

 対してweb2.0は閲覧者が管理者のように情報を整理したり口を出したりできると言う世界の事です。下手で偏見のような理解をしているので(そう言う理解だから嫌なのかもしれないが)他所を読んで欲しいですが、現状の私は快く思わない。

他、雑感

 さて、こう言う事を書くと「強い否定者なのか」と思われますが、私は高い親和性を有すことを自分自身で知っています。環境が変わるのは嫌と言いつつも、知らず知らずのうちに環境に溶け込む人間です。今回の場合も、知らず知らず環境に適応してしまうと思う。

 けれど、私がそうであるのだろうとしても、web2.0が話題になる中、旧来の物にもちゃんと良さがあった気がするのですね。そうでなければ自分は使わなかったし学ばなかったのであるから。リッチな機能は確かに良い。だが、逆にweb1.0の方が良いと思うユーザーも少なからず出てくるのではなかろうか。この先、昔の方が良かったと思うならば、旧来の手法で別に良いのではないか。私はそうも思えるのですね。

posted by yosiyama at 16:19 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

IE7ベータ版

使ってみた

 とりあえず私のサイトは致命的崩れ方はしませんでした。ただ、ズームを変えられるようで、大きくすると右余白がなくなります。枠線を嫌う私にとっての崩れ方はその程度です(ただし、枠線を使う引用部は崩れるので見直しの余地あり)。

 もしかすると横幅を決めてしまえば崩れ難いのかもしれませんね。けれども、そうすると今度はFirefoxで崩れるので、やっぱり見直しが必要でしょうかな……まあ、すぐに変更を要するものではないだろうけれど。

インタフェースについて

 私はタブブラウザはあまり好きではない。IE6にはIE6の良さがあったのではないかと思う。まあ、Firefoxなどのタブブラウザでも左側にお気に入りや履歴のサイドバーは出せるし、IE7も出せるのかもしれない(未検証のまま戻しました)。そうでなくとも、個人的にはIE6の方が好きなのだろうな、と。

 とは言っても、そう言う私自体がFirefox使いなので、全然信憑性がないかも知れない。だが、IE6はIE6で私は満足していた。物の流れで、多分IE7も使うのだろうなと思う。そうして現金な事にIE7にはIE7で満足する。Windows95から98に移った時にあれこれ思ったくせに、今はXPに満足するように。

 インタフェースの好みは私にとって慣れなのだろう。数か月したらもう馴染んでいる。そしてそれ以外のインタフェースが嫌になっている。それってどうなのだろう? と、思う。まあ、今はIE7のインタフェースに合わないから、正式版が出てもIE6は使うのだろう。そしてしばらくしてからIE6を葬りIE7に移るのだろう。

posted by yosiyama at 12:17 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

2006-02-02

生協の白石さん

生協がどう言う物か知らなかった

 大学の購買のようなものだと聞いて吃驚しました。そう言う物なのですか。いや、八百屋さんのようなものを頭の中で想像してました。

感想

 よくある芸能本です。私は面白いと思ったけれど見慣れてる。

 他に書くことがあれば絶賛になるんですが、白石さんのコラムやその他コラムを読む自分もこう書きたいなと思うこと。絶対無理ですけれど、言葉の選び方が上手だったりする。それでいて読みやすいのなんのない。本当に生協の人なんですよね? と問い返したくなりますよ。推敲してあるのでしょうがスゴイのなんの。

 ちなみに、私は質問と回答よりは書き下ろしだと思うコラムの方が好きです。質問と回答はネットで画像化されたものを既に見てしまっています。親や妹は笑っていますが、ネットでみている上、このようなFAQ形式の文庫本(例えばコンビニの棚にある奴とか)を中学時代から読み続けているため、ダメです。だからトリビアも面白いと思えない。

 けれども、コラム読むために買って良いと思った本は少ないかもしれない。そういう経験は数えるくらいしかない。改めてこれは売れるよなと思う。まあ、物凄く今更な話ですがね。

posted by yosiyama at 19:18 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

ブログ大賞

まあ予想通り

 拾ったので見ました。表紙で抱いた結果予想と実際結果はおおよそ一致。私が良いと思うブログと全体が良いと思うブログには結構ズレがありますね。人気のブログと好きなブログはやはり違うのですね。薄々どう言うブログだろうと考えて結果を見たら一致している現実を見ると、自分の感性は、全体図で表したら外れにあるんだろうなと思ってしまう。

 まあ、だからといって何かあるわけではありませんが。

posted by yosiyama at 19:00 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

2006-01-28

ごたごたの私情 終わらない勉強

気楽に運営しようと思えば思うほど

 気楽さの追求のためにjavascriptの再勉強を始めましたが、はっきり言って遠回りな気がする。大体、どう言う人でもお勉強には一定の見切りをつけるのですよね。そうでないと半永久的に学び続けなくてはならなくて、いつまで経っても実際にやりたい事などできないから。

 そう言うわけで、ほとんどの人はやりたい事から先にやって。時間の無駄食いになるお勉強をさっぱりしない。ほとんどの場合、やりたい事と言うのはお勉強でえられるごく一部なのです。正直お勉強で手に入れる八割の知識は要らない。ところが自分で一通り行うためには必要な二割と不必要と思われる八割も一緒に学ばなければならない。必要な二割を理解するためには、不要な八割の前提知識が必要だからですね。

 例えばperlの知識を得ようとしたら少なくともHTMLの知識が必要なように、欲しいものを手に入れるにはどうしても迂回して勉強せねばならないのですね。その過程がついにだるくなってきました。

 何と言うか、本当に得るための知識の量と無駄な知識の量だったら後者の方が多いよなと久しぶりに実感する。文章の練習だってせねばならないし、その他の勉強だってある。頭が痛い。だるいから勉強して気楽になろうと思ったのに、だるい作業を目を瞑って不勉強になった方が気楽に思えてくる。泥沼。そして日に日に増える一方の無駄な小技。こんな事に時間使って良いのか。

その他

 また嫌な事が起きないと良いなと思う。一月の終わりから二月の中旬に掛けて、あんまり良い思い出がないからかもしれない。今は余裕がなく、どこか刺々しい。少しばかりの余裕と、少しばかりの気心が必要だなと思う。もっとも、本音はまたインフルエンザに掛かりたくないだけであるが。また風邪ぶりかえしたくない。

小言

 過去ログの整理が終わらず、まだまだ放置期間が増える話(たぶん三月中ほどまで)だけを書くつもりが完全な愚痴記事。まあ、それでも良いか。新しい文章がなくても吐き出される更新報告の方が不気味でならない。私の場合は、だけれども。

posted by yosiyama at 13:48 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

2006-01-15

墓標

……

 しばらく放置します。来月からまた書く予定。

posted by yosiyama at 13:53 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

2006-01-14

集団と個人

ブログにも集団はあって

 私は個人ブロガーです。個人個人を相手にしてきたムラビトでもあります。そう言う人間だから個人用途に使えるブログを使い始めましたが、やっぱり集団でわいわいやりたい人間はいるんだなと半年経ってから気がついた。

 むしろそういう集団は私有地に来ないで欲しい。来るなら個人にして欲しい。私がブログやサイトを個人の日記帳だとか個人のノートとして使うにもちゃんとわけがあって、私が集団の中で生きていくつもりが毛頭ないからです。近所的な付き合いもやってきたけれど、それは個人行動だからできたわけで、集団の中のグループ行動は正直やりたくない。同じ話題で盛り上がろうにも、私は他人の話を聞く事すら苦手だし、そもそも私の話はどれもこれも私情・独り言・日記の域を出たことがない。

 ……というか、つまらない。個人個人を相手にしてネットに住んでいた私は、グループ行動が本当に苦手。奔放で気ままに、私が個人行動だからこそ書ける話を書いていきたい。そんな集団とは関わりたくもない。だから集団馴れ合いブロガーが嫌で、そう言う人間とは関われない。

 私にもつるむ人間はいる。いるがつるむ頻度は月に一回、半年に一回くらい。それくらいが私にはちょうど良い。彼らのような交流方法が肌に合わないから、検索トラックバッカーにもグループ行動をしたがるはてな族にもなれはしない。

 つまり、無所属ヽ(´ー`)ノなんですね。と……同時、どの宗教の信者でもありたいから、必然的に無所属であり続けなくてはならない。まあ、今の状況が一番快適なんですね。

まとめ

 色んな価値観を信じたい。色んな世界を見たい。自由で気ままな旅人でありたい。

posted by yosiyama at 17:16 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

2006-01-13

個人の日記を読ませるのは迷惑

ああ、やっぱりと言う話

 結局私のような日記だか思った事だか何だか分からないコメンテーターのブログは読む価値に値しない! というのが一般的考えのよう。まあ、それは当たり前だなと思う。だから私はトラックバックもコメントも嫌。毎回思う事ながら、話すためならメール打てよと自分に思う。

 まあ、興味のない人から見たらコメントもトラックバックもゴミだわなという部分に同感。そして、「このブログもつまんねーからさっさと氏ねよヽ(´ー`)ノ」と私も思う。書く場所が欲しいからここに書いているんですがね。

 とりあえずまた当分リファラと当事者メール生活にしようかな。

言いたい事

 面白いコメントだけ欲しくて、面白いトラックバックだけ欲しいというのはみんな思っていることだと思う。だが同時に、つまらなくても書き手は読んで欲しいと思っているあたりに、書き手と読み手の衝突が生じるのだと思う。私? とりあえず、何も言わない読み手よりは何か言ってくる書き手の事を中心に考えています。だからトラックバックも送ったり、名も知らない書き手のために自分が誰の何の記事に反応したのかを残してきた。それが今日の言及トラックバックと言う結果に過ぎない。まあ、つまらないなら消せば良いさ、と思ってやっているから名目はSPAMに近いのかも知れないな。

posted by yosiyama at 21:53 | TrackBack(1) | 書き散らし記事

怒りすら無関心の闇に消えていく

無関心の魔王の力は強大で

 他人が怒る姿を見ていると私はよく「そんなどーでも良い話に怒らなくてもいいじゃん」と言いたくなる。これは晒し上げたり、祭り上げたりする人間にも同様で「そんなどーでも良い奴なんかこの世に掃いて捨てるほどいるんだから反応しない方が良いよ」と言いたくもなる。

 一時間以上飽き飽きするほど怒っている人を見ると、馬鹿馬鹿しくなる。「そんなどーでも良い話に怒らなくても良いよ。そんな下らない連中なんかこの世に万単位でいるんだから」と言う独り言を心の中で大音量で叫ぶ。はっきり言って、自分が無関心な物がこの世には多い。そうして無関心な人間から見たら「ちょっとアンタはどうして怒っているんだい?」とすら言いたくもなる。私が一日二日だけ怒って三日目には綺麗さっぱりしているのは、怒る自分が馬鹿馬鹿しくなって、最後に今まで怒っていた対象すら無関心になるから。

 無関心なものに怒るだけの価値なんてない。最早それは放っておけば良い物となる。猫が素通りしただけで怒るのが阿呆なように、ゴミのポイ捨てだの、近所の騒音だの、煩いおばちゃんだの、最終的にみんな無関心になっていく。一時だけ、怒るのは何故か。

 許せない話を我慢した分の見返りがきっと欲しいのだろうなと私は考える。相手を悪役にできたとか、自分に何か利益が欲しいとか、相手が自分の言う事を理解したとか――だが怒る相手にそんなものを望んでいても、無理なわけだ。大抵怒る許せない相手と言うのはこの上なんてないほど自分の話を聞かない奴で、その癖自分の言いたい事ばかり言うやつだったりする。そんなものに相手をして何になる。いいや何にもならない。

 そうして最後はみんな無関心になる。特に私は寝た後怒っていた相手の名前も言っていた内容もムカツク言動もみな忘れる。再び見た時、怒りがまたぶり返すが大抵一瞬だ。昨日怒ったことに怒りを抱き続ける方が無理がある。怒りなんて一晩寝て忘れ去れれば、そんなものどうだって良くなる。無関心と忘却の力はあまりにも強大だ。

理想と現実

 かつて怒っていた物を、批判していた物を、気がついたら受け入れている――というのが現実だ。いつしか許容できてくる。怒るのすら虚しくなり、反発するのすら空しくなる。そうして最後は疲れ果て、嫌悪だった物が無関心に変化し、最終的にあってもなくてもどーでも良い物と化すのはよくあること。まあ――その無関心だった物がまた突如として反発や嫌悪の対象になることもよくあること。

posted by yosiyama at 12:38 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

2006-01-12

ある変わった事

アクセス解析に引っかかる珍しいもの

 今までこちらへのリンクが存在しないリンク元のページを見たけれど、これは少し意外。一応サイトの中身を全部見たけれども、どこかで見た記憶がある。どこだっけな。

 それはともかく、ブログのテスト記事に使われている画像はどこかの待ち受け屋さんの画像ではなかったかな。権利関係に関して私はそんなに煩く言いませんが、自分の使う携帯の待ち受け画像と同じだとあれこれ思ってしまう。まあ、珍しいものもあるものだなあ、と。

買い物行ってきた

 所用で東京に行く。定期的に纏まったお金を手にするようになってから、金銭感覚がおかしい。あれほど高いと思っていた往復二千円がそれほど高くないように思えてきた。まあ、月に数回だからか。

 とりあえず用が済んだら買い物してきた。買い物と言ってもそんな大層な物でもない。散歩ついでにぶらぶら歩いて、無印に寄っただけ。その後、数時間本屋に入り浸って、何か良いものはないかとひたすら探す。普段は地元から出ないから、私には珍しいわけなんだけれども、普通ならば月に数回あるのは当たり前の事なのかも知れない。

 雑踏の中、高校時代にもう少し繁華街に行くことくらいしておけば良かったと思った。確かあの頃は学校と家とを往復しただけの生活だった。だから今あちこちに行くのが楽しくて仕方がない。昔と違って行こうと思えば遠くに行けるのが本当に楽しくて仕方がない。

 ちゃんと品が揃った店を梯子するのは楽しい。普段歩く事のない違う町の駅を降りてぶらぶらほっつき歩くのが楽しい。

posted by yosiyama at 05:45 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

2006-01-10

悪夢

怒られる夢が増えた

 このところ毎夜怒られる夢を見る。内容を覚えていないあたり、叱られているのではないと思う。単純に私が言った事に相手が怒って、その怒りをぶつけられると言う夢ばかりだから、説教でもお叱りでもないだろう。純粋に感情をぶつけられているのだなと不思議と分かる。

 多分こう言う怒られる可能性のある記事をおおっぴらに晒すからだろう。沈黙のオーディエンスが有り難い。何も言われない時が一番ほっとする。また同時に寂しいが。

 構って貰えるが怒られるというのと怒られないが構って貰えないならどっちが良いのだろう。尚、構って貰って怒られないと言う選択肢はないものとする――あ、そうすると構ってもらえないけど、怒られるという非情理な事になるか。

posted by yosiyama at 22:24 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

うつ病論争に関する記事

心身の管理はちゃんとしよう

 いきなり私見を記します。

 私は「病気」と言われるものには相応の根拠が存在すると見ています。だから「病気」と称されるものに存在否定してやろうとは考えない。ついでに言えば、これからも病名はどんどん増えていくのだろうから、病気の疑いがあるものやそれらしいものには気を付けようよと私は思う。別に「心身の不具合を「病気」という便利ワードに責任転嫁してもよい」と言うのではなく、「不調の原因を解決したりダメージを受け流す術はどこかで必要でしょうよ」と言いたい。病人(或いはそれに類する人間)が「優しくしろ」と過度に言うのは私もどーかと思う。ただ、だからといって現場でガンガン働かせるのもどーかと思うよ、というのが私の現時点の感想。

うつ病論争

 ゆがんだはしごさんが書いた記事(PC)が一部で反響のよう。これらを全部読んだわけではないけれど、後で読むかも知れないから纏めてみる。冒頭の文章はごく僅かの記事を読んで書いたものではあるけれど、ちゃんと的は射てある……はず(以下は恒例、PC用)。

heartbreaking
Niemals-Gasse

 その他幾つか見つけた関連記事。

rangelife
naohaqの日記
大澤真幸萌え(おまえ)
Caramel Complex

 こちらは番外編。

男の魂に火をつけろ!

 大部分の話はheartbreakingの各記事コメント欄を基軸に動いています。論争は年を跨いで行っているようで読む量は少し多いですが、この話は面白いのでちゃんと改めて読もうと思う。

幾つかの無責任な雑感を呟く

 「原因不明」だから「ない」と見なしたり、「未定義」だから「存在しない」と言う考えもどうだろうか。「これから定義されるかも知れない」と考えないとできない事もある。これからの定義を行うために、わざわざ「存在しないと思うものを検証する」という面倒な事をするのかどうか考えてみれば良い。信じたいものしか信じない人間であるが、時には信じられないものを信じてみるという努力はできないのか。

 不快は目の前にある。ただ、「不快だから」と言って接しなかったり潰したりするのもどうか。不快なもの。信じてはならないもの。それを敢えて信じてみることによって発見することもあると私は思う――まあ、これは信じたい物を信じている人間の話だから、私は信じたいものだけ信じる大切さも言った方が良いのでしょうがね。

 まあ、「原因不明」だから「ない」と見なしたりするのは、面倒を嫌っているからなんでしょうね。面倒を省いて気楽に生きる。そうして「信じたいものしか信じない」という選択をする。そう言う人間がいても、別に良い。視野が狭くとも、当人は困らないのだし、外を知ってもメリットがないならばそういう選択をしても良いか。そんな風に見るとゆがんだはしごさんの立場も分からなくはない。

posted by yosiyama at 21:35 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

2006-01-09

いつでも天声人語

また変なツール

 また変なツールを見つけました。勝手に文章を作ってくれるツールのようです。

 と、思ったら、部分部分に入力文章が埋め込まれるようですね。まあ、そんなものか。

 ところで、天声人語の文体ってこんな感じだったかな?

posted by yosiyama at 09:31 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

何に向けて書いたのか分からない記事など感想記事ではない

名指し希望をするにもちゃんと理由があって

 元ネタにリンクしたり名前を明かしたりしない人が多いなとがっくり。そして、そう言う記事は大抵話を知らない人間から見たら「暗号記事」レベルの代物で、一体誰の何に物を言ったのか分からない物がほとんどです。感想を書く時に、リンクをつけたりどこの誰かを明示するのはこう言う理由があります。また、最低限h抜きくらいして欲しいと思う事もあります。

 そう普段思っているからこそ、こんな文章には首を上下に激しく動かしたくなります。

 某有名人ブログに毎回感想を書いてトラックバックを送ってくるファンの人がいて、その人は今まで言及リンクをつけたことがない。有名人ブログからたどった場合は、元記事についての感想だとわかるのだが、そのブログだけ読んでると何かの暗号かと思ってしまうくらい意味不明。

 このように、言及リンクしないことは、自分のブログの読者に対して情報をたどるルートを示さない不親切なものだ――と考えるのが「言及リンク文化圏」である。

 外部からまるで理解できない文章はやっぱり不気味に見えます。リファラを残したくないならばh抜きにでもすれば良いのであるし、クッションページを使ってリンクさせても良いと感じるのです(そうするとリファラが残らないから参照用のリンクを受けた方には伝わりませんが、不気味に感じる参照元不明記事を見るよりは幾分かマシでしょう)。

 そもそも感想記事って何に向けて書いたのか分かるから感想記事なのです。何に向けて書いたのか分からない記事など感想記事ではない。ところが、どこへの感想なのか明示しない記事は存在するし、引用の出典も明示しない人間はいます。自分の読者にくらいは、感想先を明示したら良いのになと、度々感じます。

posted by yosiyama at 09:05 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

考えるために書いた文章と考えた結果を書いた文章

あれこれ書いて

 文章って二通りだよなあって思った。私が書いているのは考えるための文章で、ほとんどの人が残す文章は考えた結果を書いた文章だって。思いつくまま書くから独り言を唱えるようで不気味だったけれども、よくよく考えたら「考えるための文章」だからそうなるんだよなって。

 ちゃんと「結果」を書いている人は改めてエライなって思う。考えながら私は文章を書くから、納得いく文章をなかなか生み出せない。生み出しても「結果」を書いた人からしたらプロットに過ぎないから、相当詰まっているんだなって。ただ、私は「結果」をほとんどの場合残せない。想定読者を考えない独り言である場合が多々ある。だから、リンク先を想定したりして適当な相手を作る必要があったりもするし、何度も記事を書きなおしたり、書いたりする必要がある。

 まあ、書き散らしだけれども、現状の私の力量ってそこまでなんだな。思いついた事をぱっと書いたレベル。だから一文もブツブツ切れたように見えるし、文章の繋がりも破綻する。その結果、最後まで書くことすらままならない。本当、「結果」を書いて、完成させるのは当たり前な人は羨ましい。また、そうでありたい。

 かつて(高校一年の時)の「我流独学でなんとか一日に原稿用紙五枚完成する」というレベルからは大きく成長したけれど、やっぱり文章を書けない。完成させるのが難しい。面倒と言うより、そうすることができない。苦悶の呟きとか、思考中の呟きとか、そんなレベルの文章しか生めない私とはレベルが違うのねえと改めて感じた。訓練してその領域にたどり着くならば、私は後十年くらい時間を要すのかもしれない。いいや、それ以上必要か。

posted by yosiyama at 01:08 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

2006-01-06

眞鍋ブログ派のトラックバック観

関連エントリー集に纏めますが

 ようやく応用編が更新されたので見た。注目はトラックバック観の質疑応答。予想通り、下記のようなものだった。

 例えばブログの記事を書きます。関連する他のブログ記事にトラックバックをうちます。そうすると相手の記事から自分の記事にリンクが貼られて、そこからコミュニケーションが生まれると言うわけです。

 これが言及記事を書くからトラックバックを送るような考え方から見ると、最初に言及先の記事を読んでから、記事を書き、その後トラックバックを打つと言う順序を踏む。コミュニケーション重視だと検索トラックバック方式(記事を書いた後に関連記事を探す方式)を採用し、言及方式だと記事を読んでから文章を書くと言う方式を採用してしまう。このような考え方の違いは仕方がない。ないが、予想通りの質疑応答を聞くと何だか気が滅入る。別に私は沢山のトラックバックを貰いたいからトラックバックを打つのでもなければ、コミュニケーションを求めて打っているのでもない。ましてや宣伝を行いたくてやっているのでもない(また、そうとられると困る時もあるため、私はトラックバックしたくないことも多々あるしコメント欄も書きたくはないことも多々ある)。

 まあ、コミュニケーションを重んじる方からすればそうしたくはないだろうかもしれないから咎めなどしない。ただ、順序が違うと当然トラックバックの内容も違うから、文化摩擦が起こる。これは堪えねばならない。

方針の異なる人々

 例えばリンク問題で「内輪でわいわいしたい人」と「全ての記事を自由に扱いたい人」とがネットの扱い方の方針が異なるために衝突したように、今回も似たようなものなんだなと思えた。両者のネットの扱い方は根本から違う。それはどうしようもないこと。改めて感じるのは、考え方の違いに他ならない。

番外

 私は大声で「間違っている」とは叫ばない。一つの考え方として、一つの世界を生き抜く渡世術なんだなと、講座を見て思った。その他、収録大変だったろうなと、全然関係ないことも思った。

posted by yosiyama at 17:20 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

2006-01-05

このブログが続いている理由

最後まで書く

 私の先生は良い人ばかりだった。どう言う作品でも、消したら「ゼロ」なんだって。どんなにダメでも、最後まで作らなければ本当の価値は分からないのだと。意見は最後まで書かなければ分からないし、途中で放り出したり消したりしたら「ない」のと同じなのだそうな。

 作家の指南書には「最後まで書く」という大事さが度々載っている。どんなにダメでも「最後まで書く」ことができる人間は最終的に上達するのだとよく聞く。少なくとも、文章力は伸びてないが、この文章を書いて何かが伸びたのだろうか? 私には分からない。

 ただ、確かなのは、支持されなくとも「最後まで書く」ことは大事だと言う事。消したら何も言っていないのと同じ事だから、とにかく書いて残せと言われた。ふと、ブログ削除ボタンを押しそうになると、こんな事を思い出す。嫌になっても最後まで書こう。最後まで歩こう。最後まで考えよう。そう思って、このブログは続く。私は続く。そうでなければ、もういない。正直書き続けるのはとてつもなく辛い事なんです。

 けれども、この向こう側には何があるのか、見てみたい。一体何が待つのか、いつも気になる。だから今まで書いたのではないか。書き続けて、一日でも多く存命し続けたい。誰のためでもない。私は私のために書き続けたい。

二年三年記し残す

 記録を残すことだけがこのブログの役目。それ以外は何もない。独り言の記録を残し、後でいつか読む。そうして、哂うと思う。私は過去の私を消したがるから、存分に哂うと思う。だが、ある時ある日の私をもう消したくはない。かつてCGI日記に残した僅かな日記を消したときのように、かつて残した小さな日記機能に記した記録を消すように、かつて残したこのブログに書いた記録を消したように……繰り返すかも知れない。だが、それだけはもうしたくはない。私が書き残した物はある日ある時の思ったことであり、そこには媚び諂いも嘘偽りもない。何十と消した記録をもう一度読みたくなる。もう一度、かつて書いた文章を眺めたくなる。そのような気持ちを抱かないために、もう消しやしない。叩かれようが炎上しようが道を外そうが、この記録は残したい。削除後の絶望感を感じたくはない。

posted by yosiyama at 23:32 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

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