2006-01-13

怒りすら無関心の闇に消えていく

無関心の魔王の力は強大で

 他人が怒る姿を見ていると私はよく「そんなどーでも良い話に怒らなくてもいいじゃん」と言いたくなる。これは晒し上げたり、祭り上げたりする人間にも同様で「そんなどーでも良い奴なんかこの世に掃いて捨てるほどいるんだから反応しない方が良いよ」と言いたくもなる。

 一時間以上飽き飽きするほど怒っている人を見ると、馬鹿馬鹿しくなる。「そんなどーでも良い話に怒らなくても良いよ。そんな下らない連中なんかこの世に万単位でいるんだから」と言う独り言を心の中で大音量で叫ぶ。はっきり言って、自分が無関心な物がこの世には多い。そうして無関心な人間から見たら「ちょっとアンタはどうして怒っているんだい?」とすら言いたくもなる。私が一日二日だけ怒って三日目には綺麗さっぱりしているのは、怒る自分が馬鹿馬鹿しくなって、最後に今まで怒っていた対象すら無関心になるから。

 無関心なものに怒るだけの価値なんてない。最早それは放っておけば良い物となる。猫が素通りしただけで怒るのが阿呆なように、ゴミのポイ捨てだの、近所の騒音だの、煩いおばちゃんだの、最終的にみんな無関心になっていく。一時だけ、怒るのは何故か。

 許せない話を我慢した分の見返りがきっと欲しいのだろうなと私は考える。相手を悪役にできたとか、自分に何か利益が欲しいとか、相手が自分の言う事を理解したとか――だが怒る相手にそんなものを望んでいても、無理なわけだ。大抵怒る許せない相手と言うのはこの上なんてないほど自分の話を聞かない奴で、その癖自分の言いたい事ばかり言うやつだったりする。そんなものに相手をして何になる。いいや何にもならない。

 そうして最後はみんな無関心になる。特に私は寝た後怒っていた相手の名前も言っていた内容もムカツク言動もみな忘れる。再び見た時、怒りがまたぶり返すが大抵一瞬だ。昨日怒ったことに怒りを抱き続ける方が無理がある。怒りなんて一晩寝て忘れ去れれば、そんなものどうだって良くなる。無関心と忘却の力はあまりにも強大だ。

理想と現実

 かつて怒っていた物を、批判していた物を、気がついたら受け入れている――というのが現実だ。いつしか許容できてくる。怒るのすら虚しくなり、反発するのすら空しくなる。そうして最後は疲れ果て、嫌悪だった物が無関心に変化し、最終的にあってもなくてもどーでも良い物と化すのはよくあること。まあ――その無関心だった物がまた突如として反発や嫌悪の対象になることもよくあること。

posted by yosiyama at 12:38 | TrackBack(0) | 書き散らし記事

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